「課金」というシステムは「ゲーム」との相性はどうしようもなく相容れないのかもしれないなぁ・・・。なんて、、、。

ゲームの醍醐味は公平性(フェア)であることだと思う

 

トランプの大富豪、ババ抜き、チェスや将棋、人生ゲームなどが古今東西で流行したのはそのゲームがフェアだったからに違いないと思う次第。

 

どんなに複雑そうなゲームに見えてもルールが明確で誰にでもわかる公正なものであればそれは楽しく遊べるゲームだと思う。

 

 

 

 

課金ゲームはどうなのだろうか?

最近マイケル・サンデル著「それをお金で買いますか?」を読んだ影響もあるが、お金の優遇が様々な事柄にある種の変質を起こさせるのはやはり事実のように思えてしまう。

 

倫理を歪める、、、あるいは陳腐化する、とでも言うのか。

 

ディズニーの列に並ぶのを免除される優待券、anajalのプレミアムクラスの優先検査レーン。市民宛に市が開催している無料オペラのチケットを転売したり、代行業者に金を払ってチケットの列に並ばせたり行為。

 

ゲームにあっては、プレイの技量や戦略、そのゲームに注いだ熱意で勝負が決まる従来のフェアさが、課金という(実質的な)代価を支払ういう方法で脅かされている。

 

お金を払うから だからこそ優遇されるのが普通

お金を払ったのだからハンディが得られるはず

お金を払ったのだからショートカットできるはず

 

得る権利の対価を支払ったのだから、ゲームにおいて課金者は当然優遇されるルールとなっているはずだ、と。

 

コンシューマーゲームの時代には起こり得なかったアンバランスさを引き起こす要因が今のオンラインゲームの中には内包されている。

 

「課金」というシステムを取り入れてなおフェアなゲームは成り立つのか?

 

 

「課金」というシステムは「ゲーム」との相性はどうしようもなく相容れないのかもしれないなぁ・・・。

 

 

オンラインゲームは「課金」との相性が良い、、、のか?(コンシューマーゲーム

あっても、もしも実行可能であれば企業は課金のシステムをゲームに組み合わせることは十分あり得たのだろうか?)

 

 

 

 

 

 

 

思考整理(「中立的な意見を悪と捉えて=反論・批判と捉えてしまう点」について)

思考整理

 

白黒ハッキリさせたい

議論タイプ

中立的な意見=現状維持=悪や停滞、閉塞と考えてしまう。

 

アンチソーシャル

感情を拗らせて今ここに?

生来の個性?

ソーシャルスキルはしかし、関係性(と社会的立場)を得る上では必須要素

 

ソーシャルスキルとは? 折り合いのことであろうか? それともより本質的に別の意味があるのだろうか?

 

 

考えていたこと→「折り合い」ではなく「議論」を優先にしてしまう性質。

 

別に悪い性質でもないと個人的には思う、

 

自分に行き過ぎな面があるなら、意見を主張するとき過度に期待値が高すぎるのか中立的な意見にまで噛みついてしまうところだ。(同意しない=否定、反論、批判されている?と脊椎反射で受け取ってしまう。)

 

しかし、噛みついてしまうとしても、全てに噛み付くわけではない。

 

・文の形式が批判的な様式に見える→早とちり。これは自分のミス。

・自分が提示した論点から外れた内容で中立意見を述べられているとき→意味が伝わっていない?と感じるため

・論拠がハッキリとしない断定で自分の意見に疑義を呈されている場合。→これは、明確な理由がない反論と受け取れる。

・論理的に間違っている理由で現状を擁護している反応の時→認識ミスであることを指摘したい。

・感情的な疑義・反論→論理的でない点が問題。

 

 

と、いうか、ここまで書いてきて、思ったのは普段のコミュニケーションや無難な会話ならこうした反応はまさに、折り合いとは真逆な内容だが、

 

もし仮に議論だとすれば、自分の意見を自分で擁護するのは当然な訳であって、(もちろん、自分の意見の骨子を作っている論理がまず正しい(と信じている)ことが前提ではあるが)矛盾はないと思われる。

 

あるいは問題は、議論するテーマにあるのかも知れない。

 

それは、自分たちに是非を決める余地がないこと(だと認識している)だから、明確な議論をする意義が根底から崩れているのかもしれない。

 

しかし、それは、どうなのだろうな?確かに自分が決められることなどたかが限られているし、大半のものは変化させることなどできないのかも知れない。しかし、だからと言って議論して、その結果何かの結論やその過程を経験することは決して無駄ではないと思うのだが。

 

そうした精神的営みの積み重ねが自分により深い思考を可能にさせ、物事をより批判的に見るための視点を与えてくれるのではとも思う。

 

物事をより批判的にみる視点は確かに大事だと思う。理由は、現状を肯定するだけで終わらずに済むからだ。今あるものだけを受け入れて生きていくというのはある種の思考停止や諦観にも似た考え方だと自分は思うからだ。

 

、、、ただ、かといって自分に溢れんばかりの向上心があるかと問われればそれは疑問なのだが、、、。(本当に向上心があれば燻ってはいない)

 

やはり自分の本質は冒険者よりもリスクヘッターの性質を尖らせたものなのだろうなと考える。新しいものや何かを超えて行くということより、負うリスク、損失の可能性があるかも知れないものにこそ注目して現状に疑義を唱える。

 

つまり、真に安定している(あるいは無難にでも安定している)環境においては、そこまで積極的な行動を起こす、、、、というスタンスでもないということだ。

 

要するにリスク・リターンに拠る損得勘定を基礎とした行動が自らのスタンダートとだと考えればしっくりくるのかもしれない。つまりは、合理性が高い順位で優先される性格と思われる。

 

しかし、合理性を主原理とはしても、それを適応する基準は一つではない。リソースに様々な種類があり、自分がどの資源を優先するのかがまた、合理主義にも特色を出すと思われる。

 

そういった点では、自分は感情の安定(つまるところ安心)に結構な比重を置いていると思われる。要するに精神的に脆いのだ。自力で心身の安定を維持できるのであれば選択に際して自分の心情を優先するメリットは外面的には少ない。逆に外面的な利益を追求するには自分の感情を状況に合わせて上手にコントロール出来た方が(つまり逆に心理的リソースを割いた方が)有益だ。

 

かくも、そうした精神的脆弱性から、自分の合理性は概ね世間一般のイメージとはかけ離れた特色を持っているのかもしれない。

 

神経症であるということが、問題の一つではあるのだ。

 

しかし、神経症はそれこそ社交力を苦手な人間社会の中で磨かなければ解決できない問題だと考えていた。つい最近までは。

 

確かにそれはもちろん正攻法であり、またある程度は一人でもトレーニングできるある種の社交力の磨き方は知っている。が、ではなく、神経症のそのものに対して、本質的にアプローチする方法がまた別にある。それがactであり、また別の角度では、進化心理学などを通して不安の原理自体を理解することに努めること。

 

 

 

 

 

 

 

思考を深めようとしたら、いきなり深堀はできない(ザイオンス効果ー想起のし易さのせい?)

思考整理

 

日々の慎ましやかな暮らし方

 

思考を深めようとしたら、いきなり深堀はできない、

 

まずは至近なもの、例えば、日常でよく目にするもの・触れるもの、今日見聞きした情報・知識、最近あった印象的な経験

 

そこから(記憶を遡って?)、その時のことを今一度振り返ってみる

 

つまりはそこから分析を始める。そして、、、、いずれはそれが、その分析対象の根元へと徐々に近づいていき、何か自分が解しうる真理(本当の意味で有用かは置いといて)に到達するのだと思う。

 

例えば、前に読んだ日本の敗戦に対する客観的な分析の本では、これまであまりそう分析されてこなかった日本の敗戦原因について実際に現場で見聞きした事実・体験から、その根本、本質的な敗着要因はどこにあったのかを考察していた。

 

同著者(実際には代筆に近いが)曰く、単位が国であろうと、組織であろうと、そうした根源的な要因は末端からでも分析は可能で、かつその本のちょっとした概要にもなるのかもしれないが、敗着の原因は主にその組織的な構造、、、、人で言えばそれは精神的な原因に帰結するのだと。

 

言われ、いくつかの身近な例で(主に過去や現在のグループ・組織で)の活動を想起して、そこで経験した、失敗例とその後に幸運にも発見することができた原因を材料に、当事者であった自分(組織の論理・構造に準じる行動をとっていた)が、それを把握する前にその失敗の原因を推定できただろうか?とシミュレーションしてみた。

 

要するに、その本の著者の言を参考に、そういった視点を持ち今一度、過去のまだ何らかの事業に取り組む以前の段階(あるいは取り組んでいる途中)でその後の形勢を予見出来ただろうかを思考してみた。

 

結論、確かに完全な偶然に左右されるような性質のものもないわけではないが、それでも、ある程度の決着の推定は不可能ではなかったように思えた。つまり、例え何らかの決着において、その中心から決して近くはない位置でそれを観測(経験)しただけでも、ある程度のその結果に関わる要因については真っ当な分析ができるのではないだろうかと思う。

 

で、あるなら、例え、些細な好奇心やほんの少しの違和感でも、それについて思考・考察(分析)してみることは相応の意味を得られる行為と言えるのだと自分は思う。

 

※もちろんあくまでそれはそういった事柄において、ある程度適切・有用な情報や知識があるのが前提にもなるだろうが。故に、何より小さなものから、その根源的でかつ、より精度の高い真実にまで到達するためにはそれを的確に分析する知識(場合によっては技法)と信憑性の高い情報ソースを必要とする場合もある。

 

そう考えるとより価値の高い真実を得るために必要であるが故に、秘匿性も高い知識・情報というものもあるのかも知れない。

 

、、、まぁ、そうは言っても人は自らが自己意思のもとで労力を払って得た情報にこそ価値を見出す。知らず知らず、例え地べたに大金になるような情報が転がっていたとしても(あるいはそう喧伝される情報があったとしても)それの真価を理解することはできない。よく言うアインシュタインの「真実とは、経験というテストの結果、得られるものである。」という言葉通り、自らが試行したことがそれを真実だと人には認識させるのに必要なのだろう。

 

と、脱線もいいところだが、詰まるところ、本当に思考をするのであれば、それはどんな題材、どのような瑣末に思える出来事からでも、それがどういった原因の結果であるのかなどを考える上では十分に適確な思考の対象になり得ると自分は思う。

 

、、、

 

、、、

 

では、そうした前提(仮)を踏まえて、この理論をどういったことに有用に活かせるかを考えてようと思う。

 

例えば、普段の生活の中でもこの理論は使える。凡ゆる事象を対象とできるので分析する事象には事欠かないはずだ。その中でも、人は特に個々の感性ごとに色々な視点から物を把握する、つまり例え複数人で同じものを見ようとも、それぞれが注目するポイント、抱く印象は決して必ず同一にはならない。故に、それぞれが同じ情報を受け取ったとて、そこから独自の視点で着眼点を見出し、それを対象に分析することは可能だろう。そしてそれは他者との差別化に他ならないとも思う。みるポイントは種々違い、そしてその自分が注目した1つの部分を分析し、その要因・背景を探るアプローチとなるからだ。そういったところで独創性は担保されるのではないだろうか?

 

そして、差別化(独創的な視点)をさらに促進するためには、人の習性(バイアス)を把握しそれにハマらない視点を獲得するのもいいと思う。例えば、そういった統計的に多くの人間が陥りやすい偏向を把握し、メタ的な視点で多くの人間とは別の着眼点からアイディアを生み出せれば、自身の差別化された人的価値をアピールすることにもつながるのではないだろうか?

 

ま、結局はそれは一言でまとめてしまえば『試行錯誤』と言う行為以上に他ならないが、ポイントは、着眼点は人によって殆ど千差万別であるという事実と思考というのはそういった些細な事柄にも活用できる、と言う点で、それが自己を他者より一歩前に出た独創的な人間にしてくれる可能性があるのではないだろうかということです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

幸福そうな人は僕たちにとってどういう意味を持つのか考えてみた。

幸せそうに話す沖縄から北海道へ、日本一周の旅できた青年

元気かな・・・?

 

一つ得た教訓としては、人は幸福そうにいる人が好きなのだと思う。

 

なぜ、幸せそうな人を見るとつい自分もその楽しげな雰囲気に流されてしまうのだろう?(ミラーニューr・・・)※今回は生物学的な内容は置いておきます

 

幸福な人が周りの人間に与える影響について考えてみたい。

 

幸福そうな人が周りの人にも幸福を分け与えているか?結論、与えていないと思う。

 

理由、ミラーニューロンは置いておいて、・・・人間は幸福な人を見つけると、その人の為に何かよくしてあげたいと思うのだろうか?

結論→思うと思う。

ではなぜ?→人は相手に喜んでもらうというやりとりでも満足感を感じられる生物だから。

 

また、別の見方をすれば投資の可能性。

理由、幸福そうだ→仏頂面や機嫌が悪い人に比べて、朗らかな人の方を人間は好む傾向にある。 そして、後者の方がより安定的な人間関係を築ける可能性が高いと思われる。 つまり、幸福な人間とコミュニケーションを取ることは、自分が拒絶される可能性が低く、また、人間関係を維持する能力が高い人間と繋がれる可能性があるということにはならないだろうか?

 

なぜ、人間関係を維持することが重要なのか?

 

人間は群れで生活する生態があり、だから、昔から安定した関係性を築くことは重要で、 故に幸福そうな人と関係を深めることは、その人を媒介して関連する他の人間との関係の意地にも有益で、それが巡って自身の生存の上でも役に立つと遺伝子に刻まれていたりするのでは?

 

勝手な考えですけど・・・汗(結論、自分が得したい(生存戦略上得である)から・・・ということで・・・汗)

 

 

完璧主義の諦め癖・・・(逃げているという自覚なし)※ちょっと切ない

なぜあきらめてしまうのか?

 

実は実行しよう、「でも今じゃない」と考えて、後で準備ができたら・・・万全な状態ができたら・・・と行動を後回しにしちゃうことって=諦めているともしかしたら同じ状態なのかもしれません。・・・(ええ!?)

 

なんだか響きがちょっと嫌ですよね 諦めているって。(まぁ仏教の意味から言ったら別に悪い意味でも無いそうなんですが・・・)

 

まあ、それは置いといて、これって、完璧主義の特徴だそうな・・・。完璧主義の特徴は別に言い換えると、行動しない、行動できないとも言える。という。要は失敗しないことは=行動しない、挑戦しないことだからだそうな。

 

難儀な話(動かないことで完璧というのも・・・)だが、実際自分も気づかないうちにそういう状態に陥っていることがある。

 

僕の場合、例えば、

 

本を読んで新しい知識を得たい。けれど、ちゃんと効率的な読書法を実践できるか不安だから、先に読書法を復習しよう。とか、

 

一度に読み切れるほどの集中力が今は無い、全て読み切って、全体像をノートするのが完璧な読み方で、半端になると次読み出す時、記憶が薄れて無駄が生じるかもしれない。だから、今は辞めて、集中力が復活したら読み始めよう。とか

 

挑戦しないことで、行動しないことで、逃げてしまっていないか?もしくは、行動しなかった事でまだ本気を出せていないだけ、だと考えてしまっていないか?

 

僕にはそれがよくある。他にも文章を書くとき、人が読めるレベルのものでは無い・・・。ビジネスを何か始めたくても、自分には知識が無い、(知識がないのは確かに問題なのだが、ビジネスには実践や行動を重ねた上での経験も重要なのは確かなので、知識が無いは言い訳にもなってしまうと思う)

 

 

デービット・アトキンソンさんとひろゆきさんの(本での)内容ならどっちが正しいのか・・・?

内容の概要を言うと最低賃金をあげたほうがいいのか、上げない方がいいのか?

 

デービット・アトキンソンさんの『日本人の勝算』・・・などの『〇〇の勝算』シリーズ(※僕がちゃんと読んだのは『日本人の勝算』だけなのですが・・・)の内容は、今問題になっている(?) 日本経済の低迷=企業成長率の停滞(を起こしてしまう社会構造)×少子高齢化問題に対す解決方法を提唱されている本です。

 

洞察、考察に富んだ面白い本だと思いました。

エコノミスト=経済学者とかの論文をエビデンスに経済学を軸にした洞察がなされていると思われる。

(読書レベル:僕は高卒レベルの学力なのですが、そのレベルでも読んでいても、言いたいことは理解できるので、簡便な書き方なのだと思います。)

 

で、ひろゆきさん(※本人曰く、自分が語ったことをライターさんが文字に起こしてくれていると言われていましたが)の『叩かれるから今まで黙っておいた「世の中の真実」』 YouTubeの要約動画だと「ペタング界のイチローになるな」などが(個人的には)印象的だったと思いますが、 実際読んでみて気になったのが今回書いている、最低賃金をあげると雇用が減って逆に無収入(雇われないパターン)が増えてしまうのではないか?と言う話

 

ひろゆきさんのお話は面白くて普通に好きです。忖度がなくて時に残酷な(自分の弱さを見つめなくてはいけないような)辛さもありますが笑

 本の内容は概ね流行りのYoutubeの切り抜きに近いところがあります。エビデンスとしてのデータなどが追加されているところが新しいです。

 

 

で、若干問題の最低賃金を上げるべきかどうなのか。

 

上記2冊の本しか読んでないですけれど・・・(なので浅い理解なので怒らないでくださいね汗)、

 

 最低賃金を増やすことで時間当たりの労働価値(生産性)の強制的な向上を目的にした提案(前者) に対して、 最低賃金を増やすことで、労働力のオートメーション化が進み、逆に雇用の減少が進むのではないか?と言う洞察(後者)

(※後者の論理 最低賃金の上昇→人件費の増加→事業主視点での合理化=人件費削減のためのオートメーション化促進→雇用の減少)

 

 

個人的には最低賃金の向上をきっかけに長らく停滞しているという、個人の生産性の向上、海外勢力に対抗できる競争力の復活などがあればいいなぁとか思うのですが・・・ 

 

結局、後者の最低賃金を上昇させるだけでは逆に雇用の減少が生じるのではないかと言う考察の方が現実的のような気がしてしまいます。

 

 

理由は、前者は最低賃金上昇による生産性の増加という論理には前提として、日本の事業主の経営努力による人件費増加に見合うだけの価値創出が行われる、という内容が含まれているからです。

 

これはいわゆる性善説のような気がするのです。

嫌になってしまうことに、日本は現状、ブラック企業のような低賃金で人件費を削って収益を増やそうとするような企業がたくさんある状態です。

こうした体質が大きな割合を閉めている状態では

おそらく努力の方向は上記で書いたように価値の創出に向かうのではなく、いかに人件費削減の代替を考案するかというようようなものになるのではないかと考えられて仕方がないです。

 

 

 

 

こんばんは〜マキャベリです!!

関係ありませんけど、君主論と聞くとスティーブ・ジョブズを想像しますよね?(僕は想像してしまう笑)

 

今日は君主論を読みました〜 ^^ → アウトプットしますね❗️

 

 

内容 (参考:君主論 第3章あたり [岩波現代文庫])

 

  • 複合君主制 →  要は侵略&植民地化(支配)するタイプの君主論世襲とかとの違い)
  • ルイ王(フランス)の話 → 割合が過半数越えの各少数勢力を的に回してしまったことが主たる要因で敗れてしまったパターンの例
  • 結論 →  相手を植民地化したい(支配したい)ならどうすべきか?(以下1〜5)

 

  1. それは、支配される側の制度や文化をそのまま存続させてやることで反意を抱かせない統治※(サピエンス全集・上 ーで紹介されているのイギリスがインドを何百年も支配し続けられた理由と同じ?)、
  2. 事前に(反乱の兆しの)芽を摘むこと=衝突は避けるのではなく、いずれは衝突するという想定で将来の危惧には早めに対策をすること ※『君主論』の中では、主君が直接被支配地域に住んでみることをお勧めしていた 現地でダイレクトに情報を入手することで早期対策が可能になり、逆に問題が大きくなってから表面化した段階ではおよそ対処は困難になっているという考えから。
  3. 自分の支配地域に自分に並ぶ強力な覇権の確立を防ぐこと(自ら招き入れるのは最悪ーフランス王がローマ教皇を招いてしまったパターン ある種、ランチェスター戦略とも言えるのかも?ー市場で勝者になるためには過半数以上のシェアを獲得すべきという説)
  4. 民兵を流し込む 例えるなら信長の農耕一体型兵士みたいなものを被支配地域に入れ込み、被支配民と同様の仕事に従事させつつも、反逆の防止にも勤めさせるというやり方。

 

 面白かった〜(でも、頭は疲れますねw)