本読むとき困る(ほんと困る)

読書のやり方は人それぞれだろう。

 

俺は集中力がない。だから熱心に読み続けることはできない。

薄っぺらい読み方をしてしまう。ペラペラめくって、面白そうなところだけ拾おうとなんかズルみたいなことをする。ページを繰りながら「せこいなー」と自虐している。

 

ペラペラしても1冊を15分も読んでいたら、一休憩欲しくなる。「なんでこの本読んでいるんだっけ・・・?」とか考えてしまったりもする。・・・えぇ!?汗

 

本は理解するのが難しい。・・・というか100%理解できてたら読む必要はない。

しかし困ったことに、ある程度は一般常識的な内容で構成されていて(つまり専門知識とかではない材料で解説などがされていて)も自分の場合は中々前に進めない。自分が知っている単語ですら、「そういえばそもそもこの漢字の組み合わせの意味ってなんか深みがあるよな」とかどうでもいいこと考えて、ずれてく。やはり集中力がない。

 

どうすれば1冊15分で読めるか?・・・間違ってる、無理。

最短で読み切りたい・・・そもそも、どこだけ読むとかそんなのできない。興味が他にも出たり、深まってより読み込んだりすることだってある。

 

やっぱり、本を読む・・・を作業みたにしているのがよくない、というか、訓練や向上の道具みたいにしているのがよくない。楽しく読む。面白いと思ったら1冊の本を何度でも読み込む。それでいいんじゃないだろうか?栄養ドリンクじゃなくて脳が欲しがっているから好きにさせてあげる。で。

絵描きにとって絵を描く作業が心の癒しや自分に向き合う、、、という素敵なブログを見た。

 

「何故絵を描きたいのか?」という自分自身への疑問に出た答えがそれということで、なるほどなぁ、、、っと思った。

 

つまり絵描きさんにとって絵を描くことは癒しであり日常生活の一部で、常に技術の鍛錬をしているとかそのな感じよりはもっと自然な感覚なんだなぁ、っと思った。

 

同じようなことを自分も何かやっていないだろうか?

自分の場合はなんでもない時でも、気が向いたら紙やパソコンのメモ帳に思いつくものをなんとなくどんどん書いていく。。エクスプレッシブライティングとか思考の可視化とかってなんとなくでない場合もあるけれど、何かを自分の内側から出していると、よくわからないけれど、スッキリしていく?ような気がする。

 

思考や疑問が溢れすぎてて、何か出さないと窮屈に感じてしまうタチということだろうか?

 

「クリエイターになりたい!」 紹介にあったので読んでみようっと。

思考を言語化することによってどんな効果があるのか考えてみる。

ただ文章を書いているだけw

 

しかし、質の高い興味(疑問)はそこから生まれてくるのだろうか?

 

自分が深く掘り下げる、思索をめぐらせる内で、本当に何を求めているかが(本質的な部分が)明瞭になって行くのではないだろうか?

 

書き出すことで思考は整理できる(なぜなら、人間の頭は並行して2つのことを考えられないようになっているから。文字化ー書き出すことで内容を俯瞰し比較、関連性など分析できるようになる)ー【儲け】のアイディア発想術、、、に書いてあったなぁ。

 

ツァイガルニク効果みたいなのもありだろうか?(分厚い本「思考の生理学」やら「アイディアの出し方(みたいなタイトル)」の本にも一旦課題を寝かせることで閃きが得られるって書いてあったなぁ)

 

近い本に「乱読のセレンディピティ」というのもあった。あれは、読書方法ならお勧めは乱読です。という内容の本だった。(もっと深い意義のことが書いてあったと思うんだけどなぁ、、、汗)

 

 

効果としては、、、

 

日常から思いつくものとはかけ離れたものに興味を持てる。(さっき書いていた内容では儲けるための戦略から生きて行く上での哲学に流れていた、、、いや、本当は世の中の多くのものは繋がっているという意味かもしれないが)

 

自分が現状、環境をどう認識しているのかがわかる。いつも考え事をしていても思考のつながりを頭の中で言葉に直したら必ず飛躍しているだろう(と思う)が、そうした無意識の論理のつながりまで「書き出す」という作業は(多分)文字化されるからこそ、より詳細にどう認識しているのかが理解できる。

 

他にある効果、、、

ふだん頭の中のことを言語化しないなら、言語化(表現)することで脳の新しい部分が活用されている?

 

 

 

 

 

 

 

 

儲けるための戦略って何?・学んできた知識に意味はあったのか?・学校教育で欠けているものは人生のための哲学では?

仕事

 

興味がないわけでもないのだが、、、

 

やはり知識もあるが、それ以前に社会的関係、多分野での仕事経験(幅)が欠けている

 

世間一般的な仕事がどんなものか? 警備員と自衛隊だけではなんとも経験不足が甚だしい。、、、とは言いつつも、まぁ、仕事上の根本的な人間関係はそこまで変わらないとは思うのだが。

 

変わるといえば、どちらかというと、流行かそうでないか、と言ったところだろうか。

対価として払う労力にそこまで差があるわけでなくても、実入りがいい仕事とそうでない仕事がやはりあるとは思う。乗っている仕事かありきたりな仕事か、、、というような捉え方で正しいのかはわからないが。

経済の面白さ、、、、というかおかしさはそこにあると勝手に感じる。どんだけ労力、時間などの対価を支払ってもほんのわずかの収入しか得られない仕事もあれば、それより遥かに少ない量の労力や10分の1にも満たない時間で同じ額以上の収入が得られる仕事もある。

 

イメージしやすいのは

 

特に専門的な分野の技術が必要な仕事、

会社の利益に直結している仕事(例えば交渉や営業、広告?などだろうか?)、

寡占や独占に近い市場を相手にしている仕事(ニッチでのトップも含む)、

工業化をすることで生産力を何百倍にもできる仕事、

人を管理する仕事(これも工業化と同じく、人を使って自分の仕事を代行させて生産力を倍増させる方法)、

 

(追記)特許など権利収益

 

現代でとりわけ注目を浴びている可能性があるクリエイティブな仕事もだろうか?

 

人間社会での上記のような「専門性」「契約を結んで利益を生み出す」「独占市場あるいは気象性?(独占できる市場を作り出す戦略を含む)」「代行手段による生産性の倍増」は莫大な利益を生み出せる優秀な戦略だ。当然他にももっと色々な手段はあるのだろうが、、、。

 

それぞれの戦略の人口はどうだろうか?

 

「専門性」は医者や開発技術者、SEなどどんな時代、世の中になっても需要が消滅することは決してないと思われる。が、かといって全ての専門職が必ずしも万能ではない。機械化による代替や新たなテクノロジーが開発されることで市場が縮小することは必ず起こり得る。刹那と言ってしまうほどには限られた時間でもないが、未来永劫などはなく、流行り廃れはいつか来る。

 

いつかは医者の代わりに病気の診断ができるAIが生まれるかもしれないし、人間に変わってレストランで注文を取りに来るウェイターロボットが生まれるのかもしれない。

 

電話案内がwebでの説明でその役割が代替されたり、農業の耕作や収穫が人の手ではなく農機で行われるようになったり

 

ただ、個人的な所見だが、近代は特に技術の発達が急速な気がする。だから、過去これまでは伝統とも言えるかのように続いてきた職種が、今性急に淘汰されていっているかに見える一方、新しく誕生する専門的な分野というのも、更なるテクノロジーの加速によって、この先も長く持ちこたえていくのだろうか?という不安を感じさせるように思う。

 

「専門」というのは雑多にある人が必要性を持って行わなければならない作業の中で、特に重要で限られた事柄に対して知悉していることを意味する。

 

’アマ’に対する’プロフェッショナル’。キクは誰にでもできるけれど、常人には難解なものであったり、精緻な工程が必要であったり、知識が雲泥の成果差を生んだりする。

知識、技量、経験、人間の機能として同スペックであったとしても、遥かに生産的であったり、大きな成果を出すことができる、生物学的な要素由来ではなく、人間社会で培ってきた拡張された能力を持って常人以上の成果を生み出すことができる。

 

廃れない「専門」を見つける戦略としてより応用力があるー抽象的なものに専門的になる、、、というのはどうだろうか?(とりあえず言ってみる)

 

例えば、教育(優れた学習法)、開発者(新しい基盤やテクノロジーを生み出す側ーSEもそうだろうか?)、クリエイティブなアイディアマン(機械には代替できないー独創性のあるアイディアを生み出す)

 

とかくプラットフォーム、基盤、何かが生み出されてくるためのベース。(専門って言えるのか?、、、はひとまず置いといて)種類としてはゼロサムゲームではなく創出する価値に上限がない(少なくとも現状ではそう考えられる)ような技能といった感じだろうか?

 

、、、上記のように定義してみるとより色々なものが思いつく、

 

コミュニケーション能力(社交力?)ー人間である以上絶対に無用になることはないスキル

 

語学、、、はどうだろう?(翻訳機なども進歩していて一概にはいえないだろうか?)

 

金銭的な意味合いから離れて考えて見れば、

 

異文化との交流経験ー枠の外を知っていることは発想の制限を突破できるのでは?人生の豊かさには大いに貢献する経験ではないだろうか?

 

生物学ー人間の生物としての側面を知悉していることは、あらゆる状況下において決して無駄にはなり得ないと思う。

 

自分が人間だからこそ、人間を基幹とした学問の価値は軒並み不朽で、普遍的で価値があると思われる。(当たり前のことだとは思うが)

 

 

 お金をかけずに(大金が必要ではないという意味で)身につけられるものが多い。というか、ほとんどの知識はそうかもしれない。

 しかしだ、学校で学んだ知識が実生活で今、どれ位活かされているだろうか?字の読み書きや簡単な計算は生きて行く上で有用な知識だ。しかし、理科や社会、体育、芸術、音楽、英語などはどうだろうか?

 

学生の頃はそれこそテストの点数、通知表の得点を稼ぐことで躍起になって覚えはしたが、大半の知識が実生活でどれだけ有用な活用のされ方をしているかは疑問だ。

 

自分たちが習ってきた知識は本当に狭い範囲にかかる「専門知識」だったのだろうか?

 

自分たちは知識の使い方を習っていない。

人間社会で生きていく上で、どんな事柄が重要なのか学んでいない。

 

社会の在り方、経済というものの仕組み、国というものがどの様に運用されているのか、お金とはどういう意味があるのか

 

人間に必要な美徳(もしくは哲学?)を学んでいない。生きる上で必要なものではないだろうか?

 

過去の学生生活を振り返って、「もっと学んでおけば、、、」と後悔を思い出すこともあるが、自分はその時に学問に興味を持つことができなかった。精神的に不安定だったということもあるし(神経症だった)、学問を修める有用性を根本的に理解していなかった。(社会的経験がやはり不足していたのだと思われる。バイトや社会活動を通した経験から学問の有用性を実感するからこそ、学ぶ姿勢にも身が入るのだと思う。)

 

幼い頃に社会に触れさせるのは厳しい、、、という考え方もあるかもしれないが、むしろ逆かもしれない。幼い内だからこそ、まだ将来にわたって選択肢が無数にあるからこそ、早い経験が自分自身で自らの進路を決断させる実感を与えてくれるのだと思う。流されて「自分で決めたわけでもない」と感じてしまう人生はあまり良いものではないだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

健康(不健康を助長する食材を排除した)食材でのレシピはレパートリーが少ない?自炊が飽きてしまう、どうすればいいのか、、、。

料理・レシピ

 

飽きないレシピ、ローテーション?

料理人は自炊していて毎日満足できる飽きない食事をしているのか?

毎日の自炊に高い満足を得られる方法ー高い満足とはなんなのか?、飽きが来ない事?栄養が豊富?、旬のものを使える?、珍しい料理を食べることができる?

 

 

飽きるのはレパートリーが少ないからではなくて、使える食材が少ないから?

 

ーぱん、こめ、パスタ(最近使っているが)、カレーやシチューなど油脂が多いもの、スーパーの惣菜、加工済み食品(ハムやベーコン、タレを絡めた肉や魚、添加物が多い冷凍食品)、添加物・資質・糖質が多大に入っているタレや調味料(焼肉のタレ、マヨネーズ、ケチャップ、お好み焼きソースなど)ー

 

1、写真効果を使うとモチベーションが出るかも?

→試したことがないレシピや現状市販品の制限があって作れていないメニューを一から作ってみるのに完成品の写真を見れば作りたいモチベーションが上がるのでは?

 

×

 

2、これまで好きだったけれど食材の制限で再現できなくなっていたものをリストにしてストックしておく

 

 

要は食材や調味料にから体に良くない添加物を排除できれば問題はない。当然栄養バランスやカロリー量、agesなどの老化物質などには注意するが、そういった条件をクリアして作ることができるレシピの種類も決して少なくはないと思う。

 

2、・カレー、シチュー、ハンバーグ(現状再現可能)、グラタン(小麦粉系を置き換えられれば)、たらこスパゲティ(たらこ自体に添加物があるのが問題)、鍋類(ベースのタレを一から作る必要がある)、マヨネーズ(手作り)、揚げ物系(流石に無理か?)

 

 

 

「課金」というシステムは「ゲーム」との相性はどうしようもなく相容れないのかもしれないなぁ・・・。なんて、、、。

ゲームの醍醐味は公平性(フェア)であることだと思う

 

トランプの大富豪、ババ抜き、チェスや将棋、人生ゲームなどが古今東西で流行したのはそのゲームがフェアだったからに違いないと思う次第。

 

どんなに複雑そうなゲームに見えてもルールが明確で誰にでもわかる公正なものであればそれは楽しく遊べるゲームだと思う。

 

 

 

 

課金ゲームはどうなのだろうか?

最近マイケル・サンデル著「それをお金で買いますか?」を読んだ影響もあるが、お金の優遇が様々な事柄にある種の変質を起こさせるのはやはり事実のように思えてしまう。

 

倫理を歪める、、、あるいは陳腐化する、とでも言うのか。

 

ディズニーの列に並ぶのを免除される優待券、anajalのプレミアムクラスの優先検査レーン。市民宛に市が開催している無料オペラのチケットを転売したり、代行業者に金を払ってチケットの列に並ばせたり行為。

 

ゲームにあっては、プレイの技量や戦略、そのゲームに注いだ熱意で勝負が決まる従来のフェアさが、課金という(実質的な)代価を支払ういう方法で脅かされている。

 

お金を払うから だからこそ優遇されるのが普通

お金を払ったのだからハンディが得られるはず

お金を払ったのだからショートカットできるはず

 

得る権利の対価を支払ったのだから、ゲームにおいて課金者は当然優遇されるルールとなっているはずだ、と。

 

コンシューマーゲームの時代には起こり得なかったアンバランスさを引き起こす要因が今のオンラインゲームの中には内包されている。

 

「課金」というシステムを取り入れてなおフェアなゲームは成り立つのか?

 

 

「課金」というシステムは「ゲーム」との相性はどうしようもなく相容れないのかもしれないなぁ・・・。

 

 

オンラインゲームは「課金」との相性が良い、、、のか?(コンシューマーゲーム

あっても、もしも実行可能であれば企業は課金のシステムをゲームに組み合わせることは十分あり得たのだろうか?)

 

 

 

 

 

 

 

思考整理(「中立的な意見を悪と捉えて=反論・批判と捉えてしまう点」について)

思考整理

 

白黒ハッキリさせたい

議論タイプ

中立的な意見=現状維持=悪や停滞、閉塞と考えてしまう。

 

アンチソーシャル

感情を拗らせて今ここに?

生来の個性?

ソーシャルスキルはしかし、関係性(と社会的立場)を得る上では必須要素

 

ソーシャルスキルとは? 折り合いのことであろうか? それともより本質的に別の意味があるのだろうか?

 

 

考えていたこと→「折り合い」ではなく「議論」を優先にしてしまう性質。

 

別に悪い性質でもないと個人的には思う、

 

自分に行き過ぎな面があるなら、意見を主張するとき過度に期待値が高すぎるのか中立的な意見にまで噛みついてしまうところだ。(同意しない=否定、反論、批判されている?と脊椎反射で受け取ってしまう。)

 

しかし、噛みついてしまうとしても、全てに噛み付くわけではない。

 

・文の形式が批判的な様式に見える→早とちり。これは自分のミス。

・自分が提示した論点から外れた内容で中立意見を述べられているとき→意味が伝わっていない?と感じるため

・論拠がハッキリとしない断定で自分の意見に疑義を呈されている場合。→これは、明確な理由がない反論と受け取れる。

・論理的に間違っている理由で現状を擁護している反応の時→認識ミスであることを指摘したい。

・感情的な疑義・反論→論理的でない点が問題。

 

 

と、いうか、ここまで書いてきて、思ったのは普段のコミュニケーションや無難な会話ならこうした反応はまさに、折り合いとは真逆な内容だが、

 

もし仮に議論だとすれば、自分の意見を自分で擁護するのは当然な訳であって、(もちろん、自分の意見の骨子を作っている論理がまず正しい(と信じている)ことが前提ではあるが)矛盾はないと思われる。

 

あるいは問題は、議論するテーマにあるのかも知れない。

 

それは、自分たちに是非を決める余地がないこと(だと認識している)だから、明確な議論をする意義が根底から崩れているのかもしれない。

 

しかし、それは、どうなのだろうな?確かに自分が決められることなどたかが限られているし、大半のものは変化させることなどできないのかも知れない。しかし、だからと言って議論して、その結果何かの結論やその過程を経験することは決して無駄ではないと思うのだが。

 

そうした精神的営みの積み重ねが自分により深い思考を可能にさせ、物事をより批判的に見るための視点を与えてくれるのではとも思う。

 

物事をより批判的にみる視点は確かに大事だと思う。理由は、現状を肯定するだけで終わらずに済むからだ。今あるものだけを受け入れて生きていくというのはある種の思考停止や諦観にも似た考え方だと自分は思うからだ。

 

、、、ただ、かといって自分に溢れんばかりの向上心があるかと問われればそれは疑問なのだが、、、。(本当に向上心があれば燻ってはいない)

 

やはり自分の本質は冒険者よりもリスクヘッターの性質を尖らせたものなのだろうなと考える。新しいものや何かを超えて行くということより、負うリスク、損失の可能性があるかも知れないものにこそ注目して現状に疑義を唱える。

 

つまり、真に安定している(あるいは無難にでも安定している)環境においては、そこまで積極的な行動を起こす、、、、というスタンスでもないということだ。

 

要するにリスク・リターンに拠る損得勘定を基礎とした行動が自らのスタンダートとだと考えればしっくりくるのかもしれない。つまりは、合理性が高い順位で優先される性格と思われる。

 

しかし、合理性を主原理とはしても、それを適応する基準は一つではない。リソースに様々な種類があり、自分がどの資源を優先するのかがまた、合理主義にも特色を出すと思われる。

 

そういった点では、自分は感情の安定(つまるところ安心)に結構な比重を置いていると思われる。要するに精神的に脆いのだ。自力で心身の安定を維持できるのであれば選択に際して自分の心情を優先するメリットは外面的には少ない。逆に外面的な利益を追求するには自分の感情を状況に合わせて上手にコントロール出来た方が(つまり逆に心理的リソースを割いた方が)有益だ。

 

かくも、そうした精神的脆弱性から、自分の合理性は概ね世間一般のイメージとはかけ離れた特色を持っているのかもしれない。

 

神経症であるということが、問題の一つではあるのだ。

 

しかし、神経症はそれこそ社交力を苦手な人間社会の中で磨かなければ解決できない問題だと考えていた。つい最近までは。

 

確かにそれはもちろん正攻法であり、またある程度は一人でもトレーニングできるある種の社交力の磨き方は知っている。が、ではなく、神経症のそのものに対して、本質的にアプローチする方法がまた別にある。それがactであり、また別の角度では、進化心理学などを通して不安の原理自体を理解することに努めること。