思考整理(「中立的な意見を悪と捉えて=反論・批判と捉えてしまう点」について)

思考整理

 

白黒ハッキリさせたい

議論タイプ

中立的な意見=現状維持=悪や停滞、閉塞と考えてしまう。

 

アンチソーシャル

感情を拗らせて今ここに?

生来の個性?

ソーシャルスキルはしかし、関係性(と社会的立場)を得る上では必須要素

 

ソーシャルスキルとは? 折り合いのことであろうか? それともより本質的に別の意味があるのだろうか?

 

 

考えていたこと→「折り合い」ではなく「議論」を優先にしてしまう性質。

 

別に悪い性質でもないと個人的には思う、

 

自分に行き過ぎな面があるなら、意見を主張するとき過度に期待値が高すぎるのか中立的な意見にまで噛みついてしまうところだ。(同意しない=否定、反論、批判されている?と脊椎反射で受け取ってしまう。)

 

しかし、噛みついてしまうとしても、全てに噛み付くわけではない。

 

・文の形式が批判的な様式に見える→早とちり。これは自分のミス。

・自分が提示した論点から外れた内容で中立意見を述べられているとき→意味が伝わっていない?と感じるため

・論拠がハッキリとしない断定で自分の意見に疑義を呈されている場合。→これは、明確な理由がない反論と受け取れる。

・論理的に間違っている理由で現状を擁護している反応の時→認識ミスであることを指摘したい。

・感情的な疑義・反論→論理的でない点が問題。

 

 

と、いうか、ここまで書いてきて、思ったのは普段のコミュニケーションや無難な会話ならこうした反応はまさに、折り合いとは真逆な内容だが、

 

もし仮に議論だとすれば、自分の意見を自分で擁護するのは当然な訳であって、(もちろん、自分の意見の骨子を作っている論理がまず正しい(と信じている)ことが前提ではあるが)矛盾はないと思われる。

 

あるいは問題は、議論するテーマにあるのかも知れない。

 

それは、自分たちに是非を決める余地がないこと(だと認識している)だから、明確な議論をする意義が根底から崩れているのかもしれない。

 

しかし、それは、どうなのだろうな?確かに自分が決められることなどたかが限られているし、大半のものは変化させることなどできないのかも知れない。しかし、だからと言って議論して、その結果何かの結論やその過程を経験することは決して無駄ではないと思うのだが。

 

そうした精神的営みの積み重ねが自分により深い思考を可能にさせ、物事をより批判的に見るための視点を与えてくれるのではとも思う。

 

物事をより批判的にみる視点は確かに大事だと思う。理由は、現状を肯定するだけで終わらずに済むからだ。今あるものだけを受け入れて生きていくというのはある種の思考停止や諦観にも似た考え方だと自分は思うからだ。

 

、、、ただ、かといって自分に溢れんばかりの向上心があるかと問われればそれは疑問なのだが、、、。(本当に向上心があれば燻ってはいない)

 

やはり自分の本質は冒険者よりもリスクヘッターの性質を尖らせたものなのだろうなと考える。新しいものや何かを超えて行くということより、負うリスク、損失の可能性があるかも知れないものにこそ注目して現状に疑義を唱える。

 

つまり、真に安定している(あるいは無難にでも安定している)環境においては、そこまで積極的な行動を起こす、、、、というスタンスでもないということだ。

 

要するにリスク・リターンに拠る損得勘定を基礎とした行動が自らのスタンダートとだと考えればしっくりくるのかもしれない。つまりは、合理性が高い順位で優先される性格と思われる。

 

しかし、合理性を主原理とはしても、それを適応する基準は一つではない。リソースに様々な種類があり、自分がどの資源を優先するのかがまた、合理主義にも特色を出すと思われる。

 

そういった点では、自分は感情の安定(つまるところ安心)に結構な比重を置いていると思われる。要するに精神的に脆いのだ。自力で心身の安定を維持できるのであれば選択に際して自分の心情を優先するメリットは外面的には少ない。逆に外面的な利益を追求するには自分の感情を状況に合わせて上手にコントロール出来た方が(つまり逆に心理的リソースを割いた方が)有益だ。

 

かくも、そうした精神的脆弱性から、自分の合理性は概ね世間一般のイメージとはかけ離れた特色を持っているのかもしれない。

 

神経症であるということが、問題の一つではあるのだ。

 

しかし、神経症はそれこそ社交力を苦手な人間社会の中で磨かなければ解決できない問題だと考えていた。つい最近までは。

 

確かにそれはもちろん正攻法であり、またある程度は一人でもトレーニングできるある種の社交力の磨き方は知っている。が、ではなく、神経症のそのものに対して、本質的にアプローチする方法がまた別にある。それがactであり、また別の角度では、進化心理学などを通して不安の原理自体を理解することに努めること。