綺麗な言葉と汚い言葉、どっちを使うのがいいのか?

 

綺麗、上品、丁寧、模範的な、あるいは常識的な言葉使い、角が立たない。迂遠で抽象的で、仄めかすような、グレーに近い、けれど、ある種政治的、反感を買いにくい、足のつきにくい、言葉使い、

 

逆に汚い言葉使いは、俗物的で、下品かもしれなくて、他人を批判や中傷しているかのような言い回しで、主観的、感情的な言い回しで、自分の「〜思った」というような言い回しで、データや数字的ではなく、皮肉やブラックだったり、シニカルだったり、聞き手を選ぶ、受け止め方を考えさせられる。

 

前者なら、常識的な平和で普通の人とは誰とでも大過なく無難に会話できる。後者なら、聞き手を選び(好む聞き手かそうでないか)、理解するのに頭を使い、皮肉を会する頭の良さが必要で、批判やある種キッパリとした否定などをちゃんと1個の意見として切り離して理解することができる必要がある。

 

だから、誰でもわかる無難な話し方か、お互いがしっかり考えなが会話しないと成り立たない話し方かどちらがいいのか?

 

 人は量より質だと思う。量があることに意味はない。世の中は友人が多くても、自分が認識している友人は実は相手が自分に対しても同じように考えてくれている確率は50%くらいだという、、、データもあったような、、、。輪が増えると、関係コストがかかるし、一人一人を認識するのは最大150人が限界というのがダンパー係数という研究でも言われている。親身に付き合える人間のマックスには初めから上限が定められている。しかも、相手が増えるほど個々の把握は困難になり、場合によっては薄い関係や、恐ろしくも、フレネミーという関係しているだけで自分が消耗してしまう関係すらまいつの間にか抱えてしまっている可能性もある。※他にも、サイコパス、ナルシスト、マキャベリストなども。

 

 結局それは通うからっていろんな店のポイントカードをのべつ幕なしに財布に入れて、どのカードがどこにいったのかわからなくなって、終いには無くしてしまったり、忘れてしまうようなものではないだろうか?

 

 「大は小を兼ねる」なんて諺も、それは、「それを管理する能力が自分にあって、あくまで手にを得る範疇のものに限る」としっかり条件を付け足しておいて欲しいところな気がする。

 

 不要なものは本当に必要なものを埋もれさせる。ガラクタばかりに目が行けば自分が本当にしたいことのための大切な時間がどうでもいいことで失われる。大して興味のないことにかかずらわっているうちに本当に大切なことは何かを見失ってしまう。(ゴミを見すぎて、大切なものの価値を見失ってしまう)

 

 ある、ということがただポジティブな意味合いしか持たないわけではないということみたいだ。これは、考えると、要は人間の処理能力=つまり、「身の丈」が要諦なのだろう。「豚に真珠」というやつか?「過ぎたるは及ばざるが如し」と言っておいた方が安心だろう。

 

 で、根っこに戻ると、結論。言葉使い→人間関係を左右する?→仮に)左右しても、自分にとって価値がある人間関係の関係性はどちらか?量?質?

 

 とりあえず質でいいんでないの?結局、気を使って喋るのも、大変だし、自分がそれなりに皮肉屋的な自覚があるのなら、素のそういった性格を出しても不快に捉えないタイプと付き合えた方が自分を理解してくれる友人を作れるという意味でも自分にとっては得だろう?

 

 社会が面倒くさい。バッシング好きと、それに簡単に煽られて勝手に空気を醸成してしまう人たち。

 

 自分としてはそういった老害タイプは比較的高齢層がほとんどなのではないだろうか?と考えているのだが、現実は若くても柔軟性がない人間も遺憾ながらなかなかいる。

 

 面倒くさい。何が面倒って?奴らは言って聞かないからだ。なぜそうなる?理解に苦しむ。理解が及びもつかないから苦慮する。つまり、面倒なのだ。(扱いにくい)

 

 「愚者は賢者を動かせる」を地でいく奴ら。相手にしたくないのは彼らは自分が愚者だとは考えない。だから向上しない。成長しないだから、面倒くさい。時間の無駄なのだ。

 

 人は自分が優れている、頭がいい、と考えていると学ぶ必要も成長する必要も感じない。すでに優れているからw、、、そして、絶望的な現実は日本はそれをどんどん生み出す構造がそこかしこに根付いている。くだらない慣習や因習から抜け出せないのは、その精神性がまだ近代化に追い付けていない証拠だ。

 

 戦争時代から変わっていない、、、などとも評されることも実はある日本人のメンタルだが、それ以前に鎖国されていた時のままですらある可能性もある。

 

 日本人の精神的未熟さ、倫理観の曖昧さは、根幹はおそらく島国という環境が原因なのだと考える。理由としては、1、島国で10数世紀近く殆ど海外との交流がない状態で過ごしてきた。2、全ての日本人がほぼ1民族で構成されていること。※沖縄、アイヌの人たちの存在はもちろん知っているが割合的に一旦外しておく。

 

理由をそれぞれ簡単に噛み砕いていうと、1は長い間狭い土地の内側だけで繁栄してきたことは、外部との交流のない狭い土地で好まれる性格性の人間が有利になり、それ以外の性格特製の人が淘汰されていくから。2は単民族は価値観の衝突を経験しない要因に一役買っていると考えられる。それは、どこかの未開の部族を思い浮かべてもらうと理解しやすいかもしれない内容で、つまり、極めて振り切った言い方をすれば、村のしきたりが全ての世界である。1民族、その民族が描く世界観は常に1つだけであり、印象が噛み合わないかもしれないが、性質はイスラム教やキリスト教と同じようなもの、共通の信仰が土壌になっていることだ。

 

これは残念なことに特効薬がない。人間関係の問題ではないからだ。文化の問題ですらない。土台の話なのだ。アナロジーを使って表現するなら、牧場で飼われている牛のようなもの、ということもできると思う。なんたって、安全な内側で何世代も長らく暮らしてきたのだ。それが、突然「野生の生存競争に適応しろ」と言われても、自分の野生は遥か何世代も前に忘れてしまい、元に戻るにも次世代か、次々世代に託すくらいの時間が必要だ。

 

もっと残念なのが人間の心はその生命サイクルの冗長さと、全く嘆かわしいことに同じくらいの柔軟さしか発揮されていない。つまり、20歳で馬鹿だったら、50歳になっても70歳になっても馬鹿が治ることはない、、、ことが多い事だ。

 

人間は単純だなぁw。結局生活習慣、行動習慣が固定されているから起こる。思考パターンもずっとアップデートされないから、時代に取り残されていく。「努力最小限の法則」で考えると、思考、もしくは過ごし慣れた日常習慣をアップデートするのは認知的に疲れる行為だ。だから、今で十分と考えている人なら、変化なんてしなくていいのかもしれない。※日本は愚かにもそう言った方向を向いて政治が優遇しているから恐ろしい。気持ちが悪い「弱者救済」という大義名分を掲げた美徳意識が原因なのか?