儲けるための戦略って何?・学んできた知識に意味はあったのか?・学校教育で欠けているものは人生のための哲学では?

仕事

 

興味がないわけでもないのだが、、、

 

やはり知識もあるが、それ以前に社会的関係、多分野での仕事経験(幅)が欠けている

 

世間一般的な仕事がどんなものか? 警備員と自衛隊だけではなんとも経験不足が甚だしい。、、、とは言いつつも、まぁ、仕事上の根本的な人間関係はそこまで変わらないとは思うのだが。

 

変わるといえば、どちらかというと、流行かそうでないか、と言ったところだろうか。

対価として払う労力にそこまで差があるわけでなくても、実入りがいい仕事とそうでない仕事がやはりあるとは思う。乗っている仕事かありきたりな仕事か、、、というような捉え方で正しいのかはわからないが。

経済の面白さ、、、、というかおかしさはそこにあると勝手に感じる。どんだけ労力、時間などの対価を支払ってもほんのわずかの収入しか得られない仕事もあれば、それより遥かに少ない量の労力や10分の1にも満たない時間で同じ額以上の収入が得られる仕事もある。

 

イメージしやすいのは

 

特に専門的な分野の技術が必要な仕事、

会社の利益に直結している仕事(例えば交渉や営業、広告?などだろうか?)、

寡占や独占に近い市場を相手にしている仕事(ニッチでのトップも含む)、

工業化をすることで生産力を何百倍にもできる仕事、

人を管理する仕事(これも工業化と同じく、人を使って自分の仕事を代行させて生産力を倍増させる方法)、

 

(追記)特許など権利収益

 

現代でとりわけ注目を浴びている可能性があるクリエイティブな仕事もだろうか?

 

人間社会での上記のような「専門性」「契約を結んで利益を生み出す」「独占市場あるいは気象性?(独占できる市場を作り出す戦略を含む)」「代行手段による生産性の倍増」は莫大な利益を生み出せる優秀な戦略だ。当然他にももっと色々な手段はあるのだろうが、、、。

 

それぞれの戦略の人口はどうだろうか?

 

「専門性」は医者や開発技術者、SEなどどんな時代、世の中になっても需要が消滅することは決してないと思われる。が、かといって全ての専門職が必ずしも万能ではない。機械化による代替や新たなテクノロジーが開発されることで市場が縮小することは必ず起こり得る。刹那と言ってしまうほどには限られた時間でもないが、未来永劫などはなく、流行り廃れはいつか来る。

 

いつかは医者の代わりに病気の診断ができるAIが生まれるかもしれないし、人間に変わってレストランで注文を取りに来るウェイターロボットが生まれるのかもしれない。

 

電話案内がwebでの説明でその役割が代替されたり、農業の耕作や収穫が人の手ではなく農機で行われるようになったり

 

ただ、個人的な所見だが、近代は特に技術の発達が急速な気がする。だから、過去これまでは伝統とも言えるかのように続いてきた職種が、今性急に淘汰されていっているかに見える一方、新しく誕生する専門的な分野というのも、更なるテクノロジーの加速によって、この先も長く持ちこたえていくのだろうか?という不安を感じさせるように思う。

 

「専門」というのは雑多にある人が必要性を持って行わなければならない作業の中で、特に重要で限られた事柄に対して知悉していることを意味する。

 

’アマ’に対する’プロフェッショナル’。キクは誰にでもできるけれど、常人には難解なものであったり、精緻な工程が必要であったり、知識が雲泥の成果差を生んだりする。

知識、技量、経験、人間の機能として同スペックであったとしても、遥かに生産的であったり、大きな成果を出すことができる、生物学的な要素由来ではなく、人間社会で培ってきた拡張された能力を持って常人以上の成果を生み出すことができる。

 

廃れない「専門」を見つける戦略としてより応用力があるー抽象的なものに専門的になる、、、というのはどうだろうか?(とりあえず言ってみる)

 

例えば、教育(優れた学習法)、開発者(新しい基盤やテクノロジーを生み出す側ーSEもそうだろうか?)、クリエイティブなアイディアマン(機械には代替できないー独創性のあるアイディアを生み出す)

 

とかくプラットフォーム、基盤、何かが生み出されてくるためのベース。(専門って言えるのか?、、、はひとまず置いといて)種類としてはゼロサムゲームではなく創出する価値に上限がない(少なくとも現状ではそう考えられる)ような技能といった感じだろうか?

 

、、、上記のように定義してみるとより色々なものが思いつく、

 

コミュニケーション能力(社交力?)ー人間である以上絶対に無用になることはないスキル

 

語学、、、はどうだろう?(翻訳機なども進歩していて一概にはいえないだろうか?)

 

金銭的な意味合いから離れて考えて見れば、

 

異文化との交流経験ー枠の外を知っていることは発想の制限を突破できるのでは?人生の豊かさには大いに貢献する経験ではないだろうか?

 

生物学ー人間の生物としての側面を知悉していることは、あらゆる状況下において決して無駄にはなり得ないと思う。

 

自分が人間だからこそ、人間を基幹とした学問の価値は軒並み不朽で、普遍的で価値があると思われる。(当たり前のことだとは思うが)

 

 

 お金をかけずに(大金が必要ではないという意味で)身につけられるものが多い。というか、ほとんどの知識はそうかもしれない。

 しかしだ、学校で学んだ知識が実生活で今、どれ位活かされているだろうか?字の読み書きや簡単な計算は生きて行く上で有用な知識だ。しかし、理科や社会、体育、芸術、音楽、英語などはどうだろうか?

 

学生の頃はそれこそテストの点数、通知表の得点を稼ぐことで躍起になって覚えはしたが、大半の知識が実生活でどれだけ有用な活用のされ方をしているかは疑問だ。

 

自分たちが習ってきた知識は本当に狭い範囲にかかる「専門知識」だったのだろうか?

 

自分たちは知識の使い方を習っていない。

人間社会で生きていく上で、どんな事柄が重要なのか学んでいない。

 

社会の在り方、経済というものの仕組み、国というものがどの様に運用されているのか、お金とはどういう意味があるのか

 

人間に必要な美徳(もしくは哲学?)を学んでいない。生きる上で必要なものではないだろうか?

 

過去の学生生活を振り返って、「もっと学んでおけば、、、」と後悔を思い出すこともあるが、自分はその時に学問に興味を持つことができなかった。精神的に不安定だったということもあるし(神経症だった)、学問を修める有用性を根本的に理解していなかった。(社会的経験がやはり不足していたのだと思われる。バイトや社会活動を通した経験から学問の有用性を実感するからこそ、学ぶ姿勢にも身が入るのだと思う。)

 

幼い頃に社会に触れさせるのは厳しい、、、という考え方もあるかもしれないが、むしろ逆かもしれない。幼い内だからこそ、まだ将来にわたって選択肢が無数にあるからこそ、早い経験が自分自身で自らの進路を決断させる実感を与えてくれるのだと思う。流されて「自分で決めたわけでもない」と感じてしまう人生はあまり良いものではないだろう。